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漱石と二人の若者を
つなぐ異国の句会

 少し黄ばんだ封筒に、折りたたまれた封書。開いてみると、流れるような美しい墨の字が続く。封書の表面は、「横浜市元浜町三 渡辺伝右衛門様」とあり、隅に赤い3銭切手、消印をよく見ると「3.3.5」の数字が読みとれる。裏は「牛込区早稲田南町七 夏目金之助 三月四日」。大正3年3月4日に書き、5日に投函したのだろう。

漱石が渡辺伝右衛門にあてた書簡。
 神奈川県藤沢市の渡辺アサコさん宅で、この書簡をみせてもらった。アサコさんのおじいさんが、伝右衛門(雅号は春渓)であり、大正から昭和にかけ、製茶業や貿易をしていた人物だ。引用のように、東京の帝国劇場で二人は偶然出会い、伝右衛門は後日、商売にしていた紅茶を送った。そのお礼の手紙だ。近況報告も添え、いかにも親しげな様子の文面だが、ふたりはどういう関係だったのだろうか。
 
 漱石のロンドン留学時代にさかのぼる。
 ロンドン郊外のクラッパム・コモンにあるミス・リール宅は、日本人留学生がよく住む下宿だった。その二階に、Y校(横浜商業)卒業生で、まだ20代の渡辺和太郎という若者が下宿していた。和太郎は、横浜正金銀行取締役・渡辺横浜銀行頭取である渡辺福三郎の長男で、Y校を卒業すると横浜正金銀行に入り、その後、経済視察、勉強のためロンドンへ留学(実際は遊学)に来ていた。その和太郎が住むミス・リール宅の三階に、漱石は引っ越してきた。ロンドンにきて五番目になる下宿で、帰国するまで1年4か月住む家だ。和太郎のY校の同級生、渡辺伝右衛門もやはり、経済、貿易実務修業でロンドンに来ており、しばしば和太郎の下宿に遊びにきて、泊り込んだ。
 彼らは下宿の食堂などで漱石と出会い、親しくなった。三十代の学者の漱石と、ほぼ十歳年下で実業家のたまごの交友である。
 
 長命した伝右衛門は戦後、遠い記憶をたどり、「漱石先生のロンドン生活」という貴重な文章を残した。留学時代の知られざる側面を紹介している。それによると、漱石はいつも部屋にこもって読書していたが、ときどき三階の自室に彼らを誘うこともあった。部屋の中は机、床の絨毯、マントルピースの上まで、購入した本で埋まっていた。
 「先生があまり冬籠りして、勉強に夢中になっているので、健康にも良くないと思って、自分達は先生を引張り出して、しばしば市中の芝居観物に誘った」。いっしょに「ベニスの商人」やギリシャ悲劇「ユーリセス」(ユリシーズか)を見た。「国立絵画館」(ナショナルギャラリー)、「テート画廊」(テート美術館)、キュー植物園にもでかけた。
 漱石を囲んで、句会を三回開催した。そのうち二回は漱石の部屋だった。一回目は明治34(1901)年11月3日の天長節(明治天皇誕生日)で、その日は公使館で天長節の祝賀会があったが、断って仲間内で俳句をひねった。席題は霧。漱石は「近づけば庄屋殿なり霧の朝」という句を披露した。冬が近づき、ロンドン名物の霧がたちこめ始めたのだろうか。二回目も漱石の部屋であり、漱石は「茶の花や智識と見えて眉深し」という句などを作った。智識とは高僧の意味。最後は35年正月、転居した渡辺和太郎の新しい下宿で開いた。このときはロンドン訪問中だった土井晩翠ら8人が集まった大句会になった。漱石は「山賊の赤ら顔なるほだ火かな」というユーモアある句を発表した。ストーブを囲んで、みな顔が赤くほてっていたのだろう。この日の句会の様子は、雑誌「ホトトギス」にロンドン句会と題して、掲載された。

リッチモンド公園で漱石(右から二番目)と仲間たち。
 ところで、漱石の写真はあの時代としてはかなり残っているが、ロンドン時代のものは一枚もない。ただ、スケッチがひとつだけある。明治41年2月発行の美術雑誌「方寸」の、画家浅井忠の追悼号に載っていた。留学生だった浅井は、ロンドンで漱石や和太郎らとリッチモンド公園という公園に散歩に行ったとき、知人の手帳に同行者をスケッチした(写真参照)。むかって右は当時ロンドンにいた美濃部達吉(後の憲法学者)、そのとなりが漱石、真ん中で山高帽子をかぶっているのが和太郎だ。うつむきがち、口ひげ姿の漱石の横顔は、ロンドン時代を描いた唯一の画像だ。
 
 和太郎は3年の滞欧生活をへて帰国、父を継いで横浜銀行副頭取、グランドホテル取締役になり、横浜財界に名を連ねたが、大正11年44歳で死去した。伝右衛門は、漱石がロンドンを去る直前に、ニューヨークに向かい、ニューヨークから、東京の漱石に美しい絵葉書を送った。漱石はその絵葉書を気に入って机の上に立てかけていたという。帰国後、台湾方面で製茶業を興して成功した。和太郎と違い長命で、昭和33(1958)年、79歳で死去した。
 もうひとり、Y校卒業生の田中孝太郎という人物とも、漱石はロンドンで親しく付き合っている。田中は三番目の下宿(ミセス・ブレット家)で漱石と同宿した。やはり横浜出身で、横浜の貿易商社のロンドン駐在員だった。すこぶる陽気で気のおけない男で、漱石とウマがあったらしく、ふたりでしばしば劇場へ行ったり、散歩に出かけている。シェークスピアの生地ストラッドフォード・オン・エイボンに行った田中から、シェークスピアの石膏像とアルバムを土産にもらったりした。

若者たちが卒業した
Y校をたずねて

 漱石のロンドン生活に彩りを添えた若者たちが卒業したY校は、横浜で長い歴史を持つ名門商業高校で、高校野球の強豪校としても知られている。
 明治15(1882)年、横浜の生糸商人らによって設立された。当時、日本の貿易の中心地だった横浜では、海外取引や貿易の知識が求められた。Y校はそうした貿易・商業の実務の教育機関として誕生、神奈川県の最古の公立高校であり、校歌はあの森鴎外の作詞になる。
 
 先日、横浜市南太田の横浜商業高校を訪ね、分厚い「Y校百年史」を拝見した。卒業生の名簿をめくると、明治31年(第10期)の項に、34人の卒業生のなかに伝右衛門、和太郎の名があった。卒業の記念写真に豆粒のような二人の姿があった。記録によると、和太郎は「修身実践で賞与」を得ている。もうひとりのY校卒業生・田中孝太郎の名も、明治23年(第2期)の項で見つけた。
 留学から帰って半月後のことだが、漱石は横浜の渡辺和太郎の家へ遊びに行き、「横浜見物を致し、面白く一日を消し」(書簡)た。田中孝太郎はいっしょだったようだが、伝右衛門はアメリカ滞在中でいなかった。当時、妻の実家の別棟に住んでいた漱石は、そのあとしばらくして、駒込の家に引っ越す。漱石は和太郎に出した転居の知らせの中で、家の床の間に飾りたいので、そちらの座敷にあったランの花を数株、送ってはくれまいか、とねだっている。新しい家は、駒込千駄木の家、いわゆる「猫の家」である。

漱石が暮らしていたロンドンの下宿。漱石の部屋は
左端の三階。「日本の作家夏目漱石が住んだ」と
記したブループレートが壁に設置されている。
 漱石のロンドン時代といえば、「倫敦に住み暮らしたる二年は尤も不愉快の二年なり。余は英国紳士の間にあって狼群に伍する一匹のむく犬の如く、あわれなる生活を営みたり」(『文学論序』)とする本人の回想が有名で、何のたのしみもない、索漠とした日々を想像しがちだ。だが一方で、こうしたY校を卒業した「教養ある俗人」たちとの、気楽でおだやかなつきあいもあった。「下宿籠城主義」をとなえ、部屋にこもって英書を読む日々のあいまにはさまれた、年下で行動的な若者たちとの交流は、漱石にとって貴重な息抜きだったと思われる。だからこそ、帰国後、文字通り住む場所が違っても、淡いつきあいが続いたのだろう。Y校卒業生たちも、互いの便りに「夏目の親分」「夏目のお親父さん」などと記すように、漱石に親しみと敬意をいだいていた。
 ところで、和太郎の家は横浜市元浜町一丁目というから、神奈川県庁のあるあたりだろうか。漱石が横浜のどこを見物したかは、残念ながらわかっていない。(この回は、井田好治『ロンドンの夏目漱石とY校卒業生たち』を参照しました)


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漱石右往左往~文豪・夏目漱石の足跡をたずねて~
2010年8月24日