第42回 石徹白【いとしろ】35
富士山・
石徹白から西方![]()
石徹白の地名説話は、この神社の創祀伝承と深くかかわっている。すなわち同神社の社伝によれば、景行天皇一二年、熊襲・蝦夷が朝廷に背いたとき、天皇を守護するためにイザナギ・イザナミの二神が石徹白と打波との境の橋立山に天降り、南東の方、長滝川と短滝川の間に清々しい森をみつけ、その地を「船岡山中居」と名づけて社殿を建てた。このとき、二神が船岡山の坂路に千引岩を引いて「
石徹白の名は、長寛元年(一一六三)成立の『白山之記』に、「石同代ト云社マテ女人ハ参詣ス」とみえるのが史料上ではいちばん古いと思われ、このほか異表記に石堂代・石礪代があり、戦国時代の文書には「石とおしろ」「いしとおしろ」と書いたものがある。
石徹白は、江戸時代には越前国大野郡に属し、初期には石徹白村(郷)一村であったが、やがて上石徹白・下石徹白の二村に、後期には上・中・下の三村となった。白山中居神社の社人の村で、太閤検地では検地免除とされ、江戸幕府からも除地扱いを認められた。これは朱印除地ではなく、無高扱いで、行政上は郡上藩預となっていた。石高は正確には不明であるが、『森の雫』には、五〇〇石であったところ、宝暦五年(一七五五)、郡上藩郡奉行と上石徹白村神主石徹白豊前の検地で三千石余となった。しかし古来の縄打により二千五〇〇石とし、神領に充てたとある。江戸時代初期には、石徹白郷に一二名の
社人は、夏は白山登拝者の宿坊の主人として祈祷・道案内をし、また冬は御師として各地の檀那場を回り、白山講を結成し、白山信仰の拡大に努めた。嘉永三年(一八五〇)の「社中定」によると、石徹白三ヵ村で社家・社人一五七軒がある。なお三ヵ村社人は苗字帯刀を免許されていたという。
宝暦二年、高山照蓮寺(現在の高山別院)の安祥坊恵俊が、上石徹白村にある真宗道場を改築しようとしたことが契機となって、いわゆる石徹白騒動が起こった。これは本願寺蓮如の布教による一向宗の教線拡張が、白山修験の勢力を低下させたという歴史的背景をもつ複雑な事件であったが、上石徹白村神主石徹白豊前が、白山中居神社と村方の完全支配を企て、これに対立した
郡上藩の寺社奉行は同五年一一月、杉本左近らの越訴をとがめて入牢に付し、一味の社人八九軒・四九〇人を追放、
石徹白三ヵ村は、明治一九年(一八八六)、合併して福井県大野郡石徹白村となり、同二二年同郡
(H・M)
初出:『月刊百科』1989年8月号(平凡社)
*文中の郡市区町村名、肩書きなどは初出時のものである

