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歴史地名ジャーナル
「日本歴史地名大系」が取り上げた項目は、各地域に残る一つ一つの具体的な地名。
このコーナーでは「国とは?」「地名とは?」といった、地域からは少し離れたテーマなども取り上げ、「歴史地名」を俯瞰してみました。地名の読み方が、より一層深まります。

第30回 鵜峠
【うのたお】
23

阿波・讃岐を結ぶ峠
香川県大川郡白鳥町
2009年8月 7日

険阻な山越えの道は陸の旅の難所である。まして交通機関といえば馬ぐらいのものであった近代以前の人々にとって、徒歩によるほかない九十九折つづらおり の悪路を盗賊や獣の襲撃に怯えながら通るという困難、峠を越えれば異郷の地であるという不安は常につきまとっていたものと思う。一般に「とうげ」という言葉は「たむけ」が転じたものといわれ、通行者が旅の安全を祈って花などを神への幣として手向けたためと解されている。峠は山の坂道を登りつめた所であり、峠道は山間の鞍部を越える道であることは言うまでもない。山の鞍部を意味する古語にタワ・タオリ(撓)があり、中国・四国地方には峠・垰の字を宛ててタワ・タオと読む地名が卓越して分布している(鏡味完二著『日本地名学』)。「とうげ」という語はタワ越え・タオ越えが転じたとする説が近年有力である。

鵜峠は阿波峠・宮川内みやごうち 越ともいい、香川県白鳥しろとり 町から徳島県土成どなり 町に通ずる国道三一八号にある県境の峠で、標高三八五メートル。東讃屈指の港であった三本松さんぼんまつ 港から白鳥町西山にしやま みなと 川を南に渡った道は、兼弘かねひろ の谷に入って山間の九十九折の道となる。峠のなかほどには「風穴」と呼ばれる涼風が吹き出す岩穴があって休憩所となり、ここからさきは石ころ道の急坂となって、九合目付近に水飲場があった。鵜峠の地名について、昔、阿波の鵜飼が殺生の恐しさを説いた旅僧の諫めを聞き入れず、讃岐に下って魚をとっていると、怪魚が次々と鵜の首を食い千切った。格闘のすえ怪魚を仕留めたが、それが峠で会った旅僧であったことを知り、その後いっさい漁をやめ念仏三昧に一生を終わったという地名説話がある。また阿波吉野川を餌場とする鵜のねぐらがあったからともいう。
近世には兼弘に番所があって通行手形の確認が行われ、西山の石井家には藩札交換所が設けられていた。徳島藩の藩札も残っており、阿波・讃岐の往来が頻繁であったことをうかがわせる。讃岐からは塩や魚、阿波からは農具などを行商する人々が行き交い、白鳥神社参詣の人々も多かったという。峠道も車が走るようになってから道幅も拡張され、昭和六一年(一九八六)には 田尾たお トンネルが完成して著しく便利になった。

阿讃国境の重要な峠の一つに、大川郡引田ひけた 町と徳島県板野いたの 町の間にある大坂おおさか 峠がある。古代の南海道もここを通り、『延喜式』兵部省諸国駅伝に記す讃岐最初の駅家「刈田駅」(引田の誤記)は、引田町馬宿うまやど にあったとみられている。箱根越えにも例えられるほどの険峻な道で、寛政八年(一七九六)藩主松平頼儀の領内巡視に随行した岡井乃鼎は「路峻絶、羊腸を成すは三里、大坂と為す」(東行記)と記している。坂の語源は「さか し」であるという説(和訓栞)もうなずける。また登り下りする道であるという点では峠と同じ意味を持つ地形語といえるし、さかい の転じたものとする柳田国男の説(山島民譚集)に従っても、峠と坂は同じものといえる。ただ坂は山越え道に限らず、道の起伏する所にはどこにでもあることからすれば、本来同じものではない。しかし坂が峠と同義に使用される例は多い。大和の古代地名にはすみ 坂・大坂・かしこ 坂・奈良坂などがあるが、いずれも大和平野から河内・山城などへの峠道である。有名な碓氷うすい 峠・足柄あしがら 峠も古くは碓日坂(日本書紀)・足柄の御坂(万葉集)と記されている。

ところで阿讃国境の峠では、飢饉の打ち続いた江戸後期には比較的豊かな讃岐に阿波からの難民の流入が問題となった。鵜峠・大坂峠からも多数入り込んだらしく、たびたび禁令が出された。また阿波への抜米も多かった。凶作や甘蔗作付増加に伴う稲作の減少などにより、東讃の村々では御蔵米払下願が出されていたが、その一方で阿波への抜米が行われていた。安政四年(一八五七)には三本松などで水揚された他所米が、「白麦」と偽って藩の取締を縫って大量に持ち出され、大内郡大庄屋が役・給米とも没収されている(大山文書)。攘夷論が激化した幕末期、高松藩でも沿岸防備に力を入れ、東讃では大坂越・鵜峠越も警備が強化されており、国境の要所であったことをうかがい知ることができる。

峠・坂のほかに山間部の道を意味するものとして「○越」がある。讃岐山脈に位置する鵜峠と大坂峠の中間にも大山おおやま 越という峠がある。峠という国字は平安時代以降に作字され、タワ・タオ・トウゲという言葉にこの文字が使用された。「堀河院百首」には「たうげ」「峠」の表記がみられる。タワ・タオ・サカが古くから使われ、その後「何々坂」を「何々越」とも呼ぶようになり、さらにタワ越え・タオ越えから「とうげ」の語が生まれたとみるのが自然であろう。なお鳥居とりい 峠という峠名も多く、峠の神の鳥居によるとする説があるが、トリイは恐らくタオリの転じたものであろう。源義経の「坂落し」で知られるひよどり 越もヒヨ・トリで、トリはタオリのつづまった語とみられる。柳田国男の『地名の研究』によると、東国では峠をヒョウ・ヒヨというようである。またタオはトウ・ドウに訛って藤・堂・道の字を宛てることもあるらしい。地名の解明は一筋縄では行かない。  

 

(O・K)

                                                        

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初出:『月刊百科』1989年5月号(平凡社)
*文中の郡市区町村名、肩書きなどは初出時のものである


                           
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