第22回 肝煎村 【きもいりむら】15
山形県を貫流する最上川は、その流域面積でいえば県全面積の四分の三を占め、県内のほとんどの川が流れ込むが、その支流の一つに
立谷沢川上流部では、かつて上質の砂金を産出したほか、流域の村では木流しを農間に行い生計を立ててきた。川沿いに散在する集落は、同川によって結ばれ、ひとつの共同体を形成していた。中・下流に散在していた通称立谷沢七ヵ村は、立谷沢川の氾濫に対し共同で治水を祈願する川祭を執行し、江戸時代の肝煎村に位置する
江戸時代初頭、立谷沢七ヵ村は立谷沢村一村として把握されている。元和八年(一六二二)に入部した庄内藩酒井氏の知行目録(酒井家文書)に立谷沢村とみえ、村高は六六九石余であった。寛永年間(一六二四‐四四)の高辻帳(同文書)でも同村名で記載されている。しかし、正保郷帳(千秋文庫蔵)および正保庄内絵図(本間美術館蔵)には立谷沢村の名はみえず、七つの集落ごとに村名が記載されている。すなわち立谷沢川右岸の
その中心であったのが肝煎村である。同村は正保庄内絵図作成のため、牧村才兵衛などを迎えた当時は、
立谷沢村の名は以後使用されなかったかといえば、そうではなく、天保郷帳では再び七ヵ村が立谷沢村一村で高付けされている。また立谷沢七ヵ村は肝煎村とも総称されたといわれるが、これは支配領主などからの鳥瞰的な呼称であり、そこで生活する者の間では使用されなかったと考えられる。いずれにせよ肝煎村の名は、ほかの多くの地名のように、その地形などから成立したのではなく、幕藩体制の基盤である村請制を担う村役人の職名に由来することで、きわめて近世的な村名であるということができよう。もっともこの名付け方でいくと、江戸時代の村のほとんどが、肝煎村・名主村・庄屋村となってしまい、個別の土地を指す地名の役割を失ってしまう。敢えて名付けられたところに、立谷沢川沿いの山間に散在した立谷沢七ヵ村の特徴をうかがうことができると思える。
出羽国では村の長を肝煎と称する場合が多いが、一般的には名主、庄屋と呼ばれた。おもに東日本で名主、西日本で庄屋の称が使用されるが、支配領主による相違もみられるようで、一概にその地域的分布を明らかにすることはできない。いずれも中世以来の在地有力農民の系譜を引き、多くは世襲制であった。「名主は百姓役ながらも政事に拘わり、上の役人の口真似をも致す者」であり(『
村役人は職務上の特権を活かし、富を蓄積することも多かった。
(K・O)
初出:『月刊百科』1990年1月号(平凡社)
*文中の郡市区町村名、肩書きなどは初出時のものである。

