第10回 穴馬 【あなま】3
福井県の東端に位置する
おおよそ和泉村一帯は、かつて穴馬(穴間とも書く)・穴馬谷・穴馬山と称され、「帰鴈記」(松平文庫本)は「あなま山といふは、美濃国へこゆる方なり、木たち生茂て道すがら日の光も見えず」と、近世前期の様子を記している。穴馬の名は、長承二年(一一三三)六月一四日付の官宣旨案(醍醐雑事記)に、「穴馬河内」と見えるのが早く、昭和三一年(一九五六)和泉村となるまで上穴馬村・下穴馬村としてその名を伝えてきた。
穴馬には源氏あるいは平家の落人の伝承をもつ家が多い。伊勢川の上流、下伊勢の三嶋又左衛門家旧蔵文書によれば、三嶋氏は平清盛の孫越前守資盛の子孫で、本拠はもと長門国であったが、平家没落の後、この地に土着したという。
また石徹白川と九頭竜川が合流する北西岸にある
平治の乱に敗れた源氏の一統悪源太義平は、穴馬郷朝日の
義平の贈った青葉の笛は氏神八幡宮(現在は合祀され熊野神社)に奉納され、悲話とともに現在に伝えられる。
御所ヶ平の地名は、轆轤師(木地師)の祖と仰がれる惟喬親王の住した地として、全国各地の轆轤師集落に必ずというほど存在する地名で、朝日家も轆轤師と関わりのある家であったといわれる。
穴馬の豊かな山林は、この地に轆轤師の定着を招いた。その時期は古く中世に遡るという。
朝日の対岸
穴馬へは近世にも美濃国の
高山が連なり辺境の地とも思われる穴馬にも、おおよそ九頭竜川に沿って遡り、
鎌倉時代後期、この道筋を通って、三河国の和田門徒の流れをくむ如導・信性等によって浄土真宗が越前国にもたらされた。穴馬の人々が真宗門徒となったのも彼等の教化によると伝え、中世末期には穴馬門徒と称されるまでに浸透した。
穴馬では、集落ごとに小さいながらも寺院に代わる道場を建て、浄土真宗の行事を共同で行なう場所とした。またこの道場は村の諸事を相談する集会場ともなり、穴馬の山村に居を定めた人々の、共同体としての結びつきをさらに強める役割を果してきた。
昭和三四年完成した九頭竜ダムは多くの集落を人造湖底に沈めた。これを契機とする開発の波は、穴馬を一変させる勢いである。
(M・K)
初出:『月刊百科』1981年10月号(平凡社)
*文中の郡市区町村名、肩書きなどは初出時のものである。

