第9回 通浦 【かよいうら】2
萩市・長門市などの海岸や島々は北長門海岸国定公園に指定されている。その長門市
通浦はかつて通島とも記された。通浦の浄土宗
近世の通浦は漁業を中心とし、とりわけ鯨漁で知られていた。
『古事記』の歌謡にある「いすくはし
鰐 海中を悠々と泳ぐこの動物を、古代人たちはいかに見ていたのであろうか。鯨の異称「いさな」(
鯨捕りは和歌山県の熊野地方や高知県の土佐湾など太平洋岸の漁場が早くから知られるが、日本海で本格的に行なわれるようになったのは、近世初頭以降らしい。佐賀県唐津の捕鯨は天正頃といわれ、紀州熊野の漁夫を雇い入れている(『松浦風土記』)。また安永二年(一七七三)に木崎盛標が著した「鯨一件の巻」(『肥前州産物図考』所収)は、「近国漁猟有之場」を列挙している。
平戸 あつちの大島・かきの浦・
五島 柏浦・有り川浦・魚ノ目浦・黒瀬・いたやの大島・浮嶋
対島 わにの浦・まわりの浦
筑前 かしめの大島・おろの島
長門 かよひの浦・せんざき浦
通浦の捕鯨の起りは不明だが、萩藩では明暦三年(一六五七)に、寄り鯨並に突き鯨の運上銀賦課の規定を設け、浦人に鯨組の組織をさせている。延宝元年(一六七三)には藩費で縄網(鰯網)を丈夫な苧網に替えさせ、捕鯨の技術が一段と進歩したといわれる。縄
鯨は冬から春にかけ、東から湾内に入ってくる。湾内での捕鯨は瀬戸崎浦の鯨組と共同で行なったが、湾外では通浦単独での漁猟が認められていた。元禄三年(一六九〇)の両浦の定書(『防長風土注進案』所収)は次の通りである。
附、何々海たり共一浦して突留候は突留候浦漕可申事
『防長風土注進案』によれば、通浦の産業は鯨漁銀八〇貫目、鰯網漁が同じく八〇貫目、鰺鯖漁五〇貫目。人家竈数二五〇弱のうち漁人一六〇軒、商人四〇軒。船数一九〇艘のうち漁船一五四艘、鯨船六艘・惣海船七艘とある。ちなみに米は七五石三斗九升余の収穫である。
向岸寺の五代、讃誉上人は延宝七年に観音堂を建立したが、これは鯨の供養を念じてのことといわれる。元禄五年には通浦鯨組の布施によって堂の入口に鯨墓(青海島鯨墓として国指定史跡)が建てられ、毎年六月二九日から三日三夜の間、漁師やその家族が観音堂に集まり、鯨供養の法要が営まれていた(現在は四月下旬に営まれており、今年は四月二〇日‐二五日であった)。墓石は花崗岩で総高七尺三寸、幅一尺四寸、正面に「南無阿弥陀仏、業尽有情雖放不正故宿人天同証仏果」と刻まれる。
また天保一五年(一八四四)から嘉永三年(一八五〇)の間の『鯨鯢群類過去帳』が現存するが、鯨にはそれぞれ、遊海寂念・示幻泡影・鯨海遊心・得道慈海などの戒名がつけられており、浦人が鯨によせた感謝の心を今に伝えている。
(K・Y)
鯨法會は春のくれ、
海に飛魚採れるころ。
濱のお寺で鳴る鐘が、
ゆれて水面をわたるとき、
村の漁夫が羽織着て、
濱のお寺へ急ぐとき、
沖で鯨の子がひとり、
その鳴る鐘をききながら、
死んだ父さま、母さまを、
こひし、こひしと泣いてます。
海のおもてを、鐘の音は、
海のどこまで、ひびくやら。
初出:『月刊百科』1978年6月号(平凡社)
*文中の郡市区町村名、肩書きなどは初出時のものである。

