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今週の必読・必見 更新日:2012/05/11
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若者にきれいごとを語るなかれ。人は悪と理不尽を食らってこそ成熟する
中島義道
(なかじま・よしみち)
【電気通信大学教授】
「大人」ってそんなに立派なもの? いつも不思議でたまらないのだが、こうした企画をはじめとして世の大人たちに「大人」の要件を問うと、決まって「責任感」とか「自立」とか「社会性」とか「感情のコントロール」とか……「善いこと」ばかり並べる。自分がそんなに立派でないことを知りながら、問われるとつい理想的な大人を、つまり「きれいごと(*1)」を語ってしまうのである。もちろん、現実の子供もちっとも立派ではないが、「子供vs.大人」という図式を前にすると、つい「子供」にはマイナスの符号を、そして「大人」にはプラスの符号をつけてしまうのだ。自分が責任感と社会性を具え自立し感情をコントロールできる立派な大人になりえていないことぐらいすぐわかるであろうに、自分が実現できなかったことを次世代に押しつけるのは酷というものだ。人間は悪を食らって成熟するほかないという、ルソー(*2)からカントを経てニーチェまでえんえん主張されてきた絶対原則を、現代日本の「文化人」たちはすっかり忘れてしまったのであろうか? こうした観点から、本稿では嘘は言わないことにし、大人の要件として「悪への自由」と「理不尽に立ち向かう能力」の二つを挙げて、ついわれわれが陥ってしまう「大人立派論」からの脱却を図りたい。 悪への自由という人間の本性を認めよ Xが責任能力の主体として認められるとは、Xがいわゆる倫理的な者、すなわち規範意識を有し善悪の判断ができる者であると認められることである。しかし、――断じてここを間違ってはならないが――このことは、Xがいわゆる「善いこと」をする者と認められることではない。むしろ、逆なのだ。責任能力のある者とは、ある行為が「悪い」と知りつつそれをすることが「できる」者なのであり、だからこそ彼は自分の意識と行為とのズレに対して責任をとるのである。もし、Xが四六時中「善いこと」しかできないような存在者であるとしたら、彼は責任主体ではないであろう。彼は放っておいても、いわば自動的に善いことをしてしまうのであり、自動的に悪いことを避けてしまうのだから、彼に責任を「問う」場面が永遠に開かれることはない。われわれが責任主体としての大人として、こういう存在者を想定しているわけでないことは明らかである。責任主体とは、悪いことが「できる」のでなければならない。しかも、観念的に「できる」だけではなく、現に「できる」のでなければならない。われわれは金輪際「できない」ことに対して責任を問うことはないのである。 そして、子供は責任主体ではないのだから(あるいはそれが大幅に制限されるのだから)、いくら世の中に害悪を撒き散らし(*3)ても、(少なくとも大人ほど)悪いことが「できない」とみなされる。これは――誤解している人が多いが――子供が純心であるからではなくて、子供を保護するという名目で近代(西欧型)社会がこしらえ上げたフィクションにすぎない。Xを大人として認めるとは、彼をこのフィクションから解放してやることである。つまり、彼のうちにうごめく悪への自由という「自然=本性(nature)」を認めてやること、彼を「本当のこと」を知らせていい強者(大人)として認可することである。 世の理不尽を直視できる勇気を持てるか 次に大人の要件として挙げたいのは、現実の社会における凄まじいほどの理不尽に立ち向かう能力である。自分を棚に上げて「この社会は穢れている! 間違っている!」と叫んで周りの者を弾劾し続ける少年、「人生不可解!」(*4)と叫んで華厳の滝から飛び降りる青年は掛け値なしの子供である。大人とは、他人を責め社会を責めて万事収まるわけではないことがよくわかっている者、人生とはある人は理不尽に報われある人は理不尽に報われない修羅場であること、このことをひりひりするほど知っている者である。(いわゆる)正しい人が正しいゆえに排斥されることがあり、(いわゆる)悪い奴がのほほんとした顔でのさばっていることもあり、罪もない子供が殺されることもあり、血の出るような努力が報われないこともあり、鼻歌交じりで仕上げた仕事が賞賛されることもある。いや、そもそも人生の開始から、個々人に与えられている精神的肉体的能力には残酷なほどの「格差」があり、しかもこれほどの理不尽にもかかわらず、――なぜか――「フェアに」戦わねばならない。こうした修羅場に投げ込まれて「成功している奴はみなずるいのさ」とか「世の中うまく立ち回らねば」という安直な「解決=慰め」にすがるのではなく、この現実をしっかり直視する勇気を持つ者、それが社会的に成熟した大人であるように思う。 答えのない問いを大切にして生きること われわれが大人として最も鍛えられるのは、江戸時代のキリシタンや戦前のアカ(共産党員)のように、理不尽に迫害されるときであろう。自分がキリシタンであることを知られると一族すべてに身の危険が及び、アカであることが判明すると、家族や親戚さらには友達に至るまで絶大な迷惑をかける。しかし、自分の信念をそうやすやすと変えられるものではない。つまり、自分の信念と共同体の掟とがずれているとき、人は身体の底から悩み、しかも解決が見出せない(どちらに転んでも「悪をなす」)のである。だが、だからこそ、こうした試練がわれわれを「大人」へと鍛えてくれることも確かである。 そして、現代日本でも、じつは誰でもある意味で理不尽に迫害されているのだ。理不尽にいじめに遭い、理不尽に失恋し、理不尽に職を失い、理不尽に事故に遭う。誤魔化さないかぎり、「なぜ、この自分が?」という問いは虚空にこだまし、答えが返ってくることはない。こうしたとき、この「なぜ」を消すことなく、答えのない問いを大切にして生きること、それが大人として生きることなのだ。 理不尽から逃げたら貧寒な人生しかない 子供は自分が他人を理解する努力をしないで、他人が自分を理解してくれないと駄々をこねる。他人の悪口をさんざん言いながら、自分がちょっとでも悪口を言われると眼の色を変える。濡れ衣を着せられると、もう生きていけないほどのパニックに陥る。いじめられると、あっという間に自殺する。だが、大人は、他人を理解する努力を惜しまず、他人から理解されないことに耐える。悪口を言われたら、その原因を冷静に追究する。濡れ衣を着せられたら、いじめに遭ったら、あらゆる手段でそれから抜け出すように努力する。このすべては、――誤解しては困るが――「善いこと」あるいは「立派なこと」をする能力ではなく、この世で生きるための基礎体力なのだ。私はわが列島の津々浦々に響き渡る「思いやり」や「優しさ」の掛け声に反吐の出る思い(*5)であるが、こうした体力に基づいてこそ、他人に対する本当の「思いやり」や「優しさ」が湧き出すように思う。 だから、われわれ(少なくとも凡人)は理不尽さに引き回されなければ、この意味での生きる力を養うことはできない。理不尽を避け理不尽から逃げても、自分を騙し続け他人を責め続ける貧寒な人生が待っているだけである。人生の理不尽を変えられないのなら、いっそその渦の中心めがけて身を投げ出し、その微妙な襞に至るまで味わい尽くすくらいの気概があってもいいのではないか。それが、正真正銘の大人というものである。 【脚注】
*1 きれいごと
「論座」〇七年一月号に、赤木智弘という名の若者の文章が掲載され、反響を呼んだ。題して「『丸山眞男』をひっぱたきたい 31歳フリーター。希望は、戦争。」。筆者はこの寄稿で、格差社会に絶望し、弱者に手を差し伸べない左翼に怒り、いっそ戦争でも起きれば現状をひっくり返せるのに、と夢想したが、同誌四月号では、そんな彼の異議申し立てに対し、“大人”たちから厳しい批判が浴びせられた。 「自分の横っ面をひっぱたくことだ」佐高信(経済評論家) 「まずは自力で立ち上がる意志を」斎藤貴男(ジャーナリスト) 「おのれが動け、親の世代や社会に反抗しろ」若松孝二(映画監督) 「ギャンブルに負けるのはあなただ」森達也(映画監督) 「フリーターこそが戦争へ行かされる」福島みずほ(社民党党首) これらに対して、赤木氏は同誌六月号で再度反論。〈けっきょく、「自己責任」ですか〉と言い放った。
*2 ジャン=ジャック・ルソー
一七一二―一七七八。フランスを代表する哲学者、思想家であり、フランス革命に多大な精神的影響をおよぼした。「近代教育学の祖」ともいわれるが、実人生では不遇時代に愛人との間に五人の子供をもうけ、五人とも孤児院に捨てている。音楽や小説にも非凡な才能を示した。日本でも有名な童謡「むすんでひらいて」は、ルソーのつくったオペラの一節がもとになっているという。
*3 世の中に害悪を撒き散らす
ひと昔前は、暴走族といえばワルの象徴だったが、最近は高齢化が進んでいるという。警察庁の発表(〇七年二月)によると、〇六年の全国の暴走族に関する実態調査で、二〇歳以上の成人が初めて構成員の過半数を占めたことがわかった。〇六年に確認された暴走族は八四七グループの一万三六七七人。このうち成人は五一・一%で、七年前の二九・一%から大幅に増えた。年少世代が暴走族への興味を失いつつある一方で、いつまでも暴走から“卒業”できない、子供のままの大人の姿が浮かび上がったかたちだ。
*4 「人生不可解!」
一九〇三年(明治三六年)五月、旧制一高に通う藤村操という一八歳の青年が、日光・華厳の滝に身を投げた。かたわらの木肌には「巌頭之感」と題した遺書が刻まれ、その中の「不可解」というフレーズが当時の流行語になった。何不自由ないエリート青年の死をめぐって世間が大騒ぎしたのは、それが「哲学的苦悩」の果ての選択だったからだ。華厳の滝では、藤村をまねて投身自殺を図るものが続出。高校で彼に英語を教えていた夏目漱石の『吾輩は猫である』にも、「打っちゃって置くと、巌頭の吟でも書いて華厳滝から飛び込むかも知れない」の一節が見られる。
*5 反吐の出る思い
〈五年前に姪(妹の娘)の結婚式の案内状が届いたとき、自分の体内の深いところで「行きたくない!」という明晰な叫び声を聞き、それに従ったことをきっかけにいかなる親戚づきあいをも絶っている。妻が親戚におこった事件をときおり筆談形式で知らせてくれるが、最近では、母の一番末の妹が昨年一一月に死んでいたことを一カ月もあとに知った。ということは、以前は比較的親しくしていた叔母の死も葬式も、誰も私に知らせてくれなかったということだ。このことも、やはり「社会的不適格者」という太鼓判を押されたようで、とても嬉しかった〉(中島義道『「人間嫌い」のルール』PHP新書) 【推薦図書】
筆者が推薦する基本図書
●『悪について』自著(岩波新書) ●『罪と罰』ドストエフスキー(新潮文庫ほか) ●『善悪の彼岸』ニーチェ(岩波文庫ほか) 【執筆者他論文】
【2011年版】 この世は、他人が不幸でいることを許さない幸福教信者の支配下にある 【2004年版】 学生たちよ、清く正しく生きようとするな!真剣にぐれて生きよ! 【2002年版】 ひきこもり青年よ、傲慢になるな――真剣にひきこもってこそ意味がある 【2000年版】 聴きたくない人にまで「よい音」を強制するのは多数決の暴力でしかない |
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あらまほしき大人とは生き方の芯となる信念をつねに持つ者である
坂東眞理子
(ばんどう・まりこ)
【昭和女子大学学長】
一八歳をもって大人とする法律が多いが…… 現在の青少年は身体的には成長が早い。特に女の子は高校生にもなれば身体的には大人の女性のサイズである。男の子も背は高く、ひげの剃り跡も青々として性的には成熟している。後世考古学者が日本人の骨を発掘し、比較検討すると二〇世紀後半に日本は旧人類と新人類が交代したというのではないかと想像するほど、胴長短足族は駆逐され、小頭足長族(*1)に席巻された結果、体格は向上している。多くの動物は体が成熟し、次の世代を生めれば立派な大人であり、子ども(卵)を産めばその生を終えていく。しかし人間は身体的に子どもが産めるだけでは大人になったとは到底言えない。 身体的に大人になったかどうかを見分けるのは簡単だが、知的に大人になるのはいつか、経済的に大人になるのはいつか、いろいろな次元で大人になる要件は違い、それにより大人になる年齢も違うようである。 ちなみに法律上の成人は何歳であろうか。成人式は二〇歳であり、二〇歳になれば選挙権が与えられる、お酒やタバコがのめる(これは二〇歳になる前に高校生や中学生でも実行している。むしろ二〇歳になったらタバコはやめるという話も珍しくない)、後見人なしで財産の処分ができる。しかし法定の結婚年齢は一八歳だし、少年法の対象は一八歳までである。現代社会で不可欠の運転免許が取れるのは一八歳である。二〇〇七年(平成一九年)五月に成立した国民投票法は投票年齢を一八歳と定めている。児童買春として処罰されるのは一八歳未満の児童対象の買春である。一八歳をもって責任能力のある大人とする法律が多く、二〇歳とする法律は少数派である。 就職すれば一応一人前とみなされるが…… 人間社会で大人になるには自分の収入で生活する経済力(*2)が不可欠である。しかしこれは男女差があって男性は自分で自分を養うだけでなく、結婚し、家庭を営む経済力があって初めて経済的に大人の要件を満たしたと認められる。しかし経済力は個人差が大きい。 たとえばプロ野球の選手やタレントなどは一八歳の高卒の新人でもすばらしい成績を出せば何千万円でも稼げる。そうかと思えばオーバードクター(*3)のように三〇歳代半ばでもまだ経済的自立にほど遠い人たちもいる。しかしこういう極端な例を除けば今までは学校を卒業して就職することでとりあえず、経済的に一人前になったとみなされていた。公務員も企業も雇用を保証し、企業の中で必要とされる知識技術を身につけ、次第に責任のあるポストに昇進していく将来が見えていたからである。転勤や残業など意に反する処遇にも耐えていけば賃金は保証され退職金や年金まで保証された。しかし一九九〇年代の失われた一〇年の間にこの図式は通用しなくなってきた。新卒就職の際に正社員になれず、新卒派遣、新卒パートという例も珍しくないし、正社員として就職しても三年~五年で転職、転社してしまう若者も増えている。また倒産、吸収合併、片道出向、若年定年などで安定雇用の見込みが違ってしまう社員も増えており、必ずしも就職イコール経済的な自立と安定を保障するものではなくなっている。それでも男性の場合、就職すれば一応一人前になったとみなされている。 定義が難しい経済的な大人の要件 それでは女性の場合はどうであろうか。学校を卒業して就職しても給料は高くなく、自分で生活するのは難しい。新卒でも正社員なら男性との賃金差も少なく、福利厚生もあるが、派遣、契約、パート、アルバイトなどは長くつづけていても昇給せず、いつまでも自分で生活できる収入はない。したがって親元で生活したり、親から援助を受けたりするパラサイトシングルが多い。結婚しても収入の乏しい、あるいは収入の無い専業主婦も経済的に大人の要件を備えているかどうかは疑問がある。しかし家事だけでなく、育児や介護など社会的に有用で持続的社会維持のために不可欠の仕事をしている場合は、自分の収入は無くても経済的に自立しているとみなされる。 一方、詐欺、強盗、横領、恐喝、麻薬売買、人身売買など違法な手段で巨額な収入を得ていてもそれが経済的に自立しているとはいえない。それでは今は認められない作品を生み続けている芸術家や作家の場合はどうか、職業から引退して年金で暮らしている高齢者はどうか、働かなくても資産収入、利子収入で暮らしている人はどうか、と考えていくと経済的な大人の要件は定義が難しい。働いて、社会に有用な活動をしているかどうかが重要であって、収入の額は問題ではないといえる。 また経済的な面だけでなく生活面の自立も重要である。睡眠、食事、入浴、排泄、洗濯、掃除などの健康と清潔を保つ生活習慣を保ち、人に世話してもらわなくても生活していけるのが大人としての必要最小限の要件である。 人間としてなすべき基礎的行動とは何か 生活力や経済力以上に大人かどうかを問われるのは精神面である。社会人としてのルールを理解し、他人に迷惑をかけずに行動することができるのが最低限の要件とすれば、自分で倫理観を持って自分を律し、他人を助け、幸せにする力を持ち、苦難や障害に負けず、幸運に舞い上がらず、なすべきことを行う力を持つのがあらまほしき大人の要件である。 そのためには自分の行動や生き方の芯になる信念を持ち、他人の評判や評価に一喜一憂していてはならない。イスラム教やキリスト教や仏教を信じている人は宗教が行動や生き方の芯になっているであろうが、そうでない私たちはどうするのであろうか。夏目漱石(*4)は近代人の自我のありかたを追求した末に「則天去私(*5)」の境地にたどり着いたという。私がこれを噛み砕いてみると「自分だけの利害、損得を考えないこと」「短期の収支にこだわらず、長期的な視点から行動すること」「相手の意見や希望をできるだけ聞き配慮すること」「自分のできるときにできるだけ人を助けること」といった当たり前のことを肩肘張らず、自然に積み重ねていくことではないかと思う。個性の発揮、創造性の発揮など自分が自分が、という境地から一歩踏み出して、不易流行、どんな社会でも、どんな時代でも人間としてなすべき基礎的行動、基礎的な言葉を積み上げていくことではなかろうか。 それでは人間としてなすべき基礎的な行動とは何であろうか。実はなすべきことよりなすべきでないことの方がわかりやすい。人のものを盗む、人の大事にしているものを壊し、辱める、人を傷つける・殺す、人をねたみ(*6)、足を引っ張り、悪口を言う、などはどの社会でもどの時代でも悪いこととして禁止されている。行うべきことは人により違っても、してほしくないことはかなり共通している。その上で、自分の約束を守る、責任感を持つ、他人に対する温かさを持つ、自分で善悪を判断するといった自律と自立を目指すのが大人である。 日本の大学生、青年を、欧米の青年と比較してみると、自分の意見も持たず、政治や経済についての興味や関心も持たず、与えられたお勉強を受身で行ってきたひ弱さを感じる。 身の回りの友人や知人の輪の中で気を使ってはいても、自分の見えない世界や人々についての関心が少ないことも大きな特徴である。親に愛され、大事に育てられたことを当たり前として感謝もせずにすごしている。この青年たちが大人になるためには、もう一歩踏み出さなければならない。いつまでも子どもであり、未熟であり、人に依存していることを潔しとせず、どんなに困難であり、苦しくても、人に頼らず、自分で責任を取る、と決心しなければならない。それにはまず、大人が大人としての手本を見せなければならない。 【脚注】
*1 小頭足長族
歯科医師の丸橋賢氏は、著書『退化する若者たち』(PHP新書)で、若者の活力・能力低下の根底には、戦後、日本人に生じた“生物学的異変”があると指摘している。 〈六〇歳代から上の日本人を観察してみると、(中略)彼らは中肉中背であまり背丈はなく、がっしりした体格で、顔は平らで四角い。背が高く、顔が細い現代の若年層とは人種が違うほどの差異が認められる。そして、そのような伝統的日本人は、(中略)本来の日本人は強いのだ、と感嘆するほど頑張っている。多少の肩コリや目の疲れなどがあっても、加齢のせいだろうとあまり気にせず、元気に活動しているのである〉
*2 経済力
首都圏に住む二〇代の若者の多くは休日を自宅で過ごし、無駄な支出を嫌い、貯蓄意欲が高い――〇七年六~七月に日本経済新聞が実施したアンケート調査の結果をみると、意外なほど質素で堅実な若者の生活観が浮かび上がった。とくに顕著なのは、車とお酒への関心である。二〇代で「乗用車が欲しい」人の割合は、前回調査時(二〇〇〇年)の四八・二%から、ほぼ半分の二五・三%に急落した。お酒についても、「全く飲まない」人と「ほとんど飲まない」人の合計は二〇代で三四・四%と、三〇代より約七%多い。飲み代は「無駄遣い」と感じる若者も増えている。
*3 オーバードクター
修士(マスター)、博士(ドクター)の学位を取得しながら、常勤の研究職につけない人を「オーバーマスター」、「オーバードクター」という。九〇年代以降、大学院の量的拡大政策によって大学院生の数は急増。〇六年には二四万人に達したが、一方で大学に残って研究できるポストはそれほど増えなかった。そのため、修了しても進路の決まらない「高学歴就職難民」が大量に発生した。その数は、修士と博士あわせて約二万人。ここ一五年で四倍に増大した。
*4 夏目漱石
一八六七(慶応三)年―一九一六(大正五)年。日本の小説家、評論家、英文学者。「漱石」の名は、中国晋代の孫楚という人物が「石に枕し流れに漱(くちすす)ぐ」というべきところを、「石に漱ぎ流れに枕す」といい間違えた故事にちなむ。もともとは親友の正岡子規の数多いペンネームのうちの一つだったが、正岡からこれを譲り受けたといわれる。
*5 則天去私
「天に則って私を去る」という意で、小さな我(私)を去って大我(天)に全てをゆだねること。夏目漱石が最晩年に辿り着いた境地として知られる。
*6 人をねたむ
アメリカ型の競争社会、格差社会は殺伐としたイメージで語られることが多い。フジマキ・ジャパンの藤巻健史代表は、かつて勤めていた米国の金融機関JPモルガンで、部下の「クビ切りリスト」を作ったことがあるという。しかしそこでリストラされるのは、能力的には「中間」に位置する層に限られる。「モルガンでは活躍できなくても、他に必要としてくれる会社があるから、そこへ移っては」というわけだ。しかし健康面の不安や家庭の事情で、会社から追い出されると、生活ができなくなるという人の雇用は絶対に切らない。藤巻氏も「クビ切りリスト」と同時に「切ってはいけないリスト」を提出したという。アメリカ社会には、キリスト教精神に基づくこうした弱者への配慮がある。だからこそ日本より競争が激しく格差が大きくても、それを是正すべきとは誰も言い出さないのだ、と藤巻氏は指摘する(「Voice」〇七年四月号より)。 【推薦図書】
筆者が推薦する基本図書
●『トニオ・クレーゲル』トーマス・マン(岩波文庫ほか) ●『ジャン・クリストフ』ロマン・ローラン(岩波文庫ほか) ●『次郎物語』下村湖人(新潮文庫ほか) 【執筆者他論文】
【2006年版】 出産は社会的事業――男女共同参画と育児保険で出生率は回復できる |
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